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上横手雅敬京大名誉教授のセミナー•••••「平家物語」を読む [評論&講演]

昨年11月1日という日に京都アスニーで開催された「 古典の祭典 2016 」に出かけました。

昼からの第2部で、上横手雅敬京大名誉教授の講演【「平家物語」と平清盛】、並びに荒尾 努奏者による【平曲(平家琵琶)平家の語りと琵琶の調べ】を聴く事が出来、学生時代に受けた古典の授業とは意趣の異なる時代や人物像に迫る解説や、例の「祇園精舎の鐘の音、、、、」で始まる有名な平家物語の文を生の平家琵琶の演奏で聞けて【古典の日】と制定されている11月1日にふさわしい時間を過ごせました。


珍しい平家琵琶の演奏はこの日だけの特別演奏でしたが、「平家物語」のセミナーは京都アスニーで毎月一回開かれていると分かり、翌月12月から1月、2月と連続受講しています。講演者の上横手先生は後からネット上で調べると日本中世史研究の第一人者と言われる方で、素人の私から見ても、「成る程、だからあんなに使われる資料も解釈も多岐に渡っているのか!」と感じました。先生はずっと後ろの座席から拝見すると、70才くらいの方かなと思っていましたら、あとで現在84才と知り、びっくりでした。80代の方と見えない「気」、「気迫」というエネルギーを感じたせいでしょう。大学は退官されているといえ、中世史という学問への長年の情熱がなせる技かと思います。



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一方、受けている人たちはほとんど皆と言って良いくらい高齢者です。正直びっくりしました!平日の昼間の時間帯ともなれば、若者や育児で忙しい主婦や働き手の青壮年者は来れないのは分かります。高齢者(かくいう私も)の方達の熱い学習意欲、知的好奇心には圧倒されますが、日本人の他の年代層の人たちにも私たちの遠い祖先の歴史や伝統、当時の人々の心情を正しく知ってもらいたいなと受講の場で毎回思います。


11月の初回の時か12月か、はっきりとは覚えていませんが、上横手先生が言われた事でとても印象に残り、講座を受けるきっかけとなった言葉があります。それは、内藤湖南という学者の言葉「日本人を知るために、日本の古代を知る必要はありません」を引用して、上横手先生もそう考えているとのこと。【応仁の乱】つまり下克上の時代はそれを境に日本人の体質を変えた。それ以後の日本の歴史は西洋人でも簡単に理解でき得る。応仁の乱は日本の歴史を2つに分けている。それ以前の歴史、日本人の事は解釈が必要で、だから私はこうやって来ているとおっしゃった点です。そういえば、最近、呉座勇一氏の新書「応仁の乱」がよく売れているらしい。今まであまり注目されていなかったこの時代のことがクーローズアップされている本の中味が、上横手先生の指摘があるだけに気になります。


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12月12日の講座では、「国民は地方の土民」という説明のところで、昨年末、沖縄の基地闘争で大阪から現地へ派遣された警察官が、基地反対の運動者に対し、「土人」と呼んだことに関連した説明がありました。改めて言われるとそうなのか!と思ったのは、「土」という言葉には、「つち」という意味は無いとのこと。土百姓(どん百姓)、土民、、、と例をあげられ、「『土スケベ』と言いますが、その意味がないのはわかるでしょう?」と言われ参加者の笑いを誘った。日本語は日本の歴史そのものが古い故に意味を正確に捉えるのが難しいなと笑いながら思った。

後半は、【落首】、【楽書】すなわち【落書】について話が進んだ。「門・塀・壁などに文字や絵のいたずら書きをすること」だが、平安時代の初めから見られるという。政治批判の投書の役割を果たしたのがあり、ただの落書きでは無いのがあった。その他、古典に出てくる用語や言葉は、まるで今の現代人から見れば外国語みたいな気がするが、「尼公」という言葉は、尼となった女性を敬って言うことば、と言う説明を受けると「うーん!」と唸って納得することになります。


このように、1月、2月と講座を受ける中で、毎回いくつかの刺激と発見がありますが、この先また話題にすることになるでしょう。


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共通テーマ:学問

水島総の『人間の絶対的孤独と戦後社会』ー 無縁仏ではない無縁遺骨の増加 [社会問題]

日本文化放送桜チャンネルの中の番組、【水島総の直言、極言】を2月10日(金曜日)の夜に見ました。
今回の番組の提言や水島氏の戦後社会に対する姿勢、今後の取り組みへの表明に特に共感を覚えたので、内容を書き留めてみました。ところどころは自分のコメントを入れたり、文を継ぎ足していますので大目にみてください。


日本における『人間の絶対的孤独と戦後社会』を表すものとして、レポーターの佐波優子氏(戦後問題ジャーナリスト)が最近とみに増加してきている無縁仏を取り上げています。きっかけとなったのは、朝日新聞の神奈川県版、「独居の終活、寄り添い一年」という記事にあった、横須賀市による死後の葬儀・納骨サポート、エンディング・サポートの事業活動だったとのこと。一人暮らしは孤独死に繋がることがよくあり、少子化と高齢化を併せ持つ日本では今後も増えこそすれ、減っていくことはないと思われます。「これは国全体の問題、人の生き方、死に方に関わる根本問題と言える。」と、水島総氏は『一人生まれて、一人死ぬ』と言った白隠禅師の言葉を引用しながら視聴者に提起しています。


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佐波氏曰く、無縁仏は、実は無縁遺骨の事で、それは引き取り手のない遺骨というのが真実である事。その数はたった5年の間の短い間で2、3倍に増えていると言います。例として、札幌市の場合、65人から141人。仙台市の場合、40から90人に。福岡市の場合、54から175人へと増加している。大阪市に至っては、2,000人を超えているとの報告がありました。これ以上に驚いたことは、この方々の9割には家族がいた、つまり無縁の人々ではなかったということである。ここに現代日本社会の持つ人間関係の希薄さが表れている。水島氏曰く、「自分たちには関係のないようだけれども、同時代に同じように生きてきた人たちのことなので、非常に悲しい。『終活』という言葉自体も辛い」


戦後社会の同胞の人たちが無縁で亡くなって往く、また、体が弱り、食べ物も買いに行けない、食べられない。一人暮らしで心も体も衰弱していく苦痛は想像もできない。これは同時代に生きてきた一人一人の人達に当てはまる問題だ。唯物論だけでは済まされない。今は「終活」という言葉も広く知られ、本も出され、終活ノートもあったりするが、それを書いている内に、人には色んな思いが湧いてくることだろう、等など水島氏、佐波氏の両氏は語り合う。佐波氏が、横須賀市の取り組みは心が救われる行政のプランだと言っているのには同感で、この事業が全国的に広がって行けば良いと思います。


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今回、この『直言、極言』の番組で、戦後社会の中で増加してきた無縁遺骨のことを取り上げ、今後も他番組でも問題提起していくことを表明された事は、大変意義深い事と思いました。日頃から、この日本文化放送桜チャンネルの各番組はよく見ていますが、常設の情報番組や討論番組に終始する事なく、こういう国民一人一人のレベルや状況に即した問題を正面から取り上げる水島氏の姿勢は大変貴重だと感じました。


最後の方で、水島氏は国内の草奔の人々の中で無縁遺骨が生まれぬよう、分骨でもいい全骨でもいい合同の墓のようなものを考えていると言われました。これが本当に実現すれば、日本社会の一助、もっと言えば、戦後社会の負の現象を癒していく一例になるのではないでしょうか? 社会に有益な心和ませる試みだと思います。

自社の討論番組で司会を務める水島氏に対し、ネット上で「司会者が意見を言い過ぎだ、他の論客にもっと意見を言ってもらいたい」などとよく言われたり、ご本人曰く、いわれのない誹謗中傷を受けていると言われますが、政治、経済、歴史など語っている中で、時折垣間見る氏の原初的な感性の豊かさ(人間的センス、文学的センス)を知るが故に、私個人としては番組を見続けている次第です。


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共通テーマ:日記・雑感

映画「沈黙」を観て•••••日本は宣教師の墓場? [映画]

もうかなり前に、バプティスト派の牧師さん(この方は滞在歴も長く日本語も堪能な方)から、「日本は宣教師の墓場だ」と話されるのを聞いて、強く印象に残っていた。この映画の原作は遠藤周作の「沈黙」である。残念なことに原作はまだ読んでいなく、映画の方が先になってしまったが、1つの作品としてどう感じたかを書いてみた。


映画全体を観終えて、内容や展開を予想していた前半よりも後半の方が興味深かった。主人公ロドリゲス神父が、彼を信仰に導いたと言える恩師フェレイラ神父が遠い日本で棄教したという知らせをマカオで聞くところから映画は始まる。主役はアンドリュー・ガーフィールドが演じているが、ついあのスパイダーマンかと思ってしまったり、4百年前の話なのに現代の青年の匂いがしてしまうのは私だけだろうか?彼なりに演技にははまっていたと思うのだが。スコセッシ監督が最初に考えていた、あのカメレオン俳優と異名を持つダニエル・デイ・ルイスの方があの時代の雰囲気にマッチしていると個人的には思います。彼ならば、生命の果てるギリギリのところまで神と対峙する悩める人間をもっと深く演じられたのではと想像します。


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実はこの「沈黙」の映画化の話を私がネット上で最初に見たのは10年ほど前だったように覚えている。当時長崎に居たこともあり、時の流行作家、遠藤周作氏の講演もそれよりずっと昔に一度聞いたこともあって映画化を期待する気持ちが高まりました。しかし、どういう経緯かその話がたち消えてしまい、再び、今度は映画の完成のニュースを昨年9月か10月ごろに知った次第です。


だいぶ話がそれましたが、キリシタンではありながら何度も踏み絵を踏む「転ぶ」行為を選ぶキチジロー役は、日本人の(勿論でしょうが)窪塚洋介が演じています。このキチジローはその度にロドリゴ神父に告悔(こっかい、英語ではconfession)を請います。こうした人間の弱さ、愚かさ、哀れさを彼はよく滲ませていましたが、懺悔を神父に何度も請い願う場面を見るうちに、これほど繰り返していくうちには、もっと彼の中で苦悩が深まっていくのでは、何かしらもっと変化が生じていくのではという疑問が湧いてきました。そこに映画の演出の物足りなさを感じます。キチジローがいかに厳しい環境に置かれ、教養もなく、人間の弱さを持った性格だろうとも、そもそも神という存在を自分の中に自分なりに認識したのなら、神に背く、つまり、信仰を否定したり自分の大切なものを何度か否定する行為は、その後の彼を変えていくでしょう。


演技力においては、井上筑後守を演じたイッセイ尾形がもっと巧みであったと思う。ロドリゴ神父に向かって放つ言葉、「お前はわしに負けたのではない、日本という沼地に負けたのだ」というセリフが印象的です。また「 村人たちはお前のいう神を信じているのではない、お前たちパードレを崇めているのだ」という内容の言葉は非常に示唆に富んでいる。中東で生まれ、西洋で広まったキリスト教は本当に日本という異なる文化、風土にある民に理解されうるのか? 最初に述べた「日本は宣教師の墓場だ」というある牧師さんの言葉が蘇ってくる。


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目の前で迫害を受ける隠れキリシタンたちの苦悩、非業の死をまざまざと見せつけられ、神はいるのか?何故、神は沈黙し答えてくれないのか?とロドリゴ神父は苦悶する。生きているロドリゴ、殺されていく信者達に為すすべも与えない神の全き「沈黙」と、信者達の命と引き換えには棄教せざるを得なかったロドリゴのその後の「沈黙」の生き様は彼の心の中でどう捉えられ解釈が成されたのだろうか?
最後のシーンはここでは言えないが、観る人に1つのヒントを与えていると言える。


棄教後の彼を語るナレーションの声が誰が語っているのかはっきりと分からないまま、最後のシーンまで釘付けになった。3時間ほどの長い映画であったが、途中で飽きがくることも無く、寧ろ時間の経過が早く感じられたのは、物語の引き回しが成功しているのだろう。見終わって、色々と補足説明が欲しいような気がしたので、やはり原作を読むしかないだろう。


最後に、映画のロケーションは、なんと台湾で行われたと分かった。日本ではコストがかかりすぎるのが大きな原因とネットに書かれていた。日本の海岸の景色かなと思えたが、アジアで日本にも極めて近い台湾の海や山が使われていた。

28年前に「沈黙」の翻訳本を読んだ時からこの映画化を望んでそれをついに叶えたスコセッシ監督の大いなる意志に大きな拍手と賛辞を捧げます。


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