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「スペクター」主演・ダニエル・クレイグのインタヴュー [芸能やエンターテイメント]

日本では12月4日公開の映画「スペクター」に主演しているダニエル・クレイグが、英国のTimeOut誌のインタヴューで答えている記事を見つけたので、素人ながら簡単に要約してみました。

ところどころ省いた文もあるかと思いますが、気楽に読んで頂けると嬉しいです。


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  ダニエル・クレイグインタヴュー:「次のジェイムズ・ボンドにアドバイスだって?
   冗談じゃない、やめてくれ。」

ジェイムズ・ボンドことダニエル・クレイグの1日の始まりは、エスプレッソを2倍濃くしたものを二杯、これに落とし卵付きのトーストだ。そのあとそのエスプレッソをもう一杯。基本的には、カフェインが次々と必要だが、カフェインをを和らげる蜂蜜を加えている。このインタヴューは今年7月にされたが、丁度四日前47才になったばかりで「スペクター」を8か月かかって撮り終えたばかりだった。この映画で彼はロンドン近郊のパインウッド・スタジオやモロッコ、メキシコ市、オーストリアのアルプス、それにローマと飛び回っていた。

ボンド役としては四回目の出演、「スカイフォール」で2012年度全世界で10億ドルの興行成績を収めたサム・メンデス監督とは二度目の仕事になる。今度の「スペクター」はスタイリッシュで古典的なボンド映画に出来上がるはずだと彼は思っている。
クレイグは嘘はつかず、率直で思慮深い人間だ。一瞬、恐れがその青い眼をよぎる。「自信過剰はこの業界では禁物だ」と語る。「映画がうまく成功するのを祈るだけだね。」そうだ、プレッシャーはないが、エスプレッソのお替りがほしい・・・

  ――8月の撮影を終えて――

いつも映画が終わると、皆でハイタッチをし合って「ああ、みんなよくやったよ!」と言えたらいいと思うよ。終了直前にモロッコで撮影をして、これが映画の本当の終わりだと思って出かけていき、爆発のシーンを取ってボンド映画らしいものを作り、終わりにふさわしいと思った。

  ――これ程長期間の撮影をした後にしたいことは?――

文字通り休暇を取ることだね。もっともだと思わないかい? 頭の切り替えをしたいんだ。日曜日の朝6時にベッドの中で体を起こし、仕事に出かけなくては、と思っているのが日常だから、そんな気持ちは切り替え、目覚ましを止め、眠りにつきたいのさ。もっとお酒も沢山飲みたいし、今週からリラックスした生活を始めているよ。

――四回もボンド役を演じるつもりが常にありましたか?もう10年ほど経っていますが――


もう一作出演する契約をして全て準備万端だった。スタジオでも出来るだけ早急に取り掛かりたいという熱意がすごくあり、「2本連続して取ろうじゃないか!」と一瞬こんな会話も出てきたが、僕は「気は確かか?正気の沙汰ではない!」と可能な限りの表現で言ったんだ。2本はあまりにもでかすぎるよ。

――あなたは、「スカイフォール」を"見どころ一杯のボンド"と表現しましたが、今度の新作をどう表しますか? 同じ位見所一杯というのか、また違った作品と言いますか?ーー

いいところついてるね。複雑な言い方をすれば、「スカイフォール」は実にうまくいき、あらゆる記録を破り、とんでもなく成功を収めた。だから、もう一作作らないといけなくなると、メンデス監督を含め、我々全員が途方もなく怯んでしまったんだ。どうしたら良いかって? 一旦始めたら、「スカイフォール」のことは考えられないと分かったんだ。"この映画の事だけ" を考えねばならなかった。

この続きは、【インタヴューその2】として近日中に投稿します。


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ケント・ギルバート氏 ー 「保守」の論客として注目される [芸能やエンターテイメント]

今週、11月23日から27日の5日間、産経新聞「話の肖像画」で米カリフォルニア州弁護士・タレントのケント・ギルバートさんが取り上げられていました。1983年(昭和58年)、テレビの【世界まるごとHOWマッチ】で流暢な日本語で回答する姿が今でも印象に残っていますが、最近はいわゆる「保守の論客」として意外な言動で人々の支持を受けています。もっともご本人に言わせれば、「僕はもともと世間でいう『保守』で、自分が真ん中、中道だと思っています。左でも右でもなく真実を知りたいだけです。」ケント氏はユタ州と言えば連想しやすいように、モルモン教徒の両親のもと学校の成績は常にトップで、少年時代になんと指導の先生を凌ぐほどピアノを弾くのが得意だった才能があるそうです。


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大学入学後に、モルモン教徒の男性らしくなにより伝道を希望して教会の霊感(インスピレーション)により先ず九州の福岡に派遣されたのです。派遣の通知後、「日本か。どこだっけ?」というくらいの認識だった国にその後住み着いて、家庭も持ち仕事でも活躍し続けているというのは、不思議なものです。来日した翌日から福岡の天神に伝道に出かけたというのですから感心します。この時のエピソードを昔聞いていて思い出しました。初めて日本で外食したのは、福岡市内にある動物園の入り口前にあった食堂だったそうです。その頃その動物園近くにいた私は、話を聴きながら、ああ、あそこなのかと分かりました。古い昔ながらの小さな簡易食堂といった感じでした。その時食べたのが、オムレツかオムライスかとにかく卵料理の名前を挙げておられました。


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  当時の写真が紙上に載っていましたが、一目でモルモン教徒の青年だと分かる、例の半袖のワイシャツにネクタイをしただけのズボン姿です。時々九州のどこかしら見かけていましたが、青年たちは最近も夏はその姿をして自転車で駆け回っているのでしょうか?2年間の伝道を終え、大学に復学し、さらに法科大学院に進み、就職で再び再来日したのですが、前述の【世界まるごとHOWマッチ】で一躍人気者となり、芸能活動のギャラは、例えばCM一本で勤めていた法律事務所の年収を上回っていたというのですから、やはり芸能界は多くの人が目指す派手な業界だなと思います。そうした超高収入を得ながら、昭和60年代にいろいろ手を付けた事業でも持ち前の冷静さを失わず事業の引き際、撤退の仕方を見極めているところが、さすが企業の弁護士をしていただけのことがありますね。


  ケント氏がユタ州で30年以上も公認会計士をしていた父親のことを今でも尊敬し、中学一年生時の同級生だった奥さんのこと、3人の息子さんのことを語っているところに人として信頼が持てる方だと思いました。親子関係に関する彼の考えは、「子供は先に生まれた僕に育てる義務があるだけで、存在的には僕と同等だと思うんです。でも、友達という関係ではありません」という言葉によく表れています。感情におぼれるタイプの人でなく、理知的に人生を歩んできた人だと思います。


  日本には自分の意志ではなく来たけれど、結果論として、自分がやってきた仕事は日本人が気づいていない良いことを紹介したり、指摘することだったとケント氏は言います。最近の「保守」としての言論活動もその同じ延長だということでしょう。最近の本の題名:「まだGHQの洗脳に縛られている日本人」、「素晴らしい国・日本に告ぐ」、「日本の自立」を見るだけでもケント氏がいかに人のために、日本のために役に立ちたいと思っておられるのかよくわかります。単なる日本びいきの外国人と言うのではなく、日本や日本人にとっても頼もしいこれからも注目していきたい人物ですし、ネットではかなり多くの動画でケント氏の批評・考え方が聞けますので、まだ聞いたことのない人は必見です。


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私の出会った芸能人・有名人ーその3 [芸能やエンターテイメント]

1985年頃(正確な年は忘れました)、俳優ジャッキー・チェンを間近に見れる機会が偶然訪れました。そのころ住んでいたマンションの隣室の奥様が、自分は行けないからと【アジア国際映画祭】の入場チケットを下さったのです。興味津々で出かけてみると、先ず司会者として、その頃も人気があった武田鉄也さんが登場しました。テレビでの印象をいい意味で裏切られ、思いのほかソフトな温かい人柄が伝わってきました。「こんなに感じのいい人だったのか!」という感じです。さていよいよジャッキー・チェンの登場です。彼はその時の入賞作品や入賞者に賞を授けるプレゼンテーターでした。


  名前を呼ばれ招かれてステージに上がっていくとき、意外なほどに小柄でウエストが細くキュッとしまった逆三角形の体型に目が点になりました。そうですね、アクションスターが肥えていては務まりませんね。映画祭でどんな作品や人たちが表彰されたのか覚えていませんが、今でも感動してはっきりとおぼえているのは、有名な俳優ジャッキー・チェンの本当にはったりのなく驕らない温和な人柄です。まるでお世辞のように聞こえるかもしれませんが、じっと観察していてそう思ったのです。

映画祭が全部終了したとき、ゲストやら受賞した人たちが、アジアでもトップ俳優のジャッキー・チェンとの記念写真を一人、二人と頼んで近寄ると、全く嫌な顔をせず満面の笑顔で気さくに応じるのです。 それが終わったかと思うとまた別の人が我も我もと続きます。そのころにはステージ近くにより、至近距離でジャッキーの様子を見ている私の方が「これは大変! もういい加減やめたら!?」と思うくらいなのに、呆れていやがるようでもなく満面の笑みで応じていました。なんて人間のできた人だろうと感心しました。ジャッキーくらいの地位の人なら、そして普通人も、まあ数枚くらいはにこやかに応じて、じゃあ!と立ち去るのは許されるでしょう。しかし、彼は最後まで笑顔で付き合っていました。この映画祭の前に、私はジャッキー・チェンの半生を紹介した番組を見ていたので、成程と合点しました。それは彼がまだ5歳くらいの頃、彼を残して両親がオーストラリアに出稼ぎに出発するときのことです。本心は勿論親と別れたくない、出来るならついていきたい、さびしく悲しい、と様々な感情がこみあげてくるのに、幼いジャッキーは自分がここで泣けば両親もつらいのだと泣 かなかったと語っていました。この一言でもいかにジャッキーが小さいころから苦労し心の強い人だったかが分かります。


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数年前に、彼の息子が中国で確か麻薬関係で逮捕されたことがありました。その時、大陸での彼の知名度を考えると、罪を情状酌量してもらったり色々な手を回すことも可能だったようですが、彼は一切そんなことはしなかったと聞きます。生まれた時から有名俳優の息子だったという境遇が災いしたかのような事件ですが、苦労人ジャッキーの心中を察しました。台湾と日本の超有名歌手のテレサ・テンとは一時交際をした時期もあったと聞きますが、もし結婚していたらと想像すると興味がわきます。ともあれ、あれだけ体を張って映画を作り続ける不屈の闘志は不遇な時代を一つ一つ克服 してきて勝ち得たものだと思います。あの嫌みのないサービス精神には感服した出会い?でした。


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  次は、中村メイコさんのご主人、作曲家の神津善行さんです。この方の音楽トークショーに出かけたことがあります。昔から知名度があるのは奥さんのメイコさんの方でしたが、新聞紙上で無料参加できるのを知り、会場のメルパルクホールに出かけました。この催しは妊婦さんのための、胎教にいい演奏会でもありました。いくつかのクラッシックの名曲を聴き終え、神津さんのお話が続きます。その中で音楽の幼児教育はいつからすべきか?というような問いに対し、ピアノは指先の力ではなく、肩や肩幅などの骨格がしっかりとしていることが大事だといわれたのが印象的でした。骨格のできていないあまり幼い頃にピアノを始めてもいけないということです。やはり、実際のプロの方の見方は違うなと思いました。

  このころ、出版業界で活躍されていたのが、ジャーナリストの落合信彦氏です。記憶をたどるとテレビにも結構出演されていたかと思います。「狼たちの・・・」といったシリーズ物も有名です。(今も月刊誌のSAPIO等にその名前を見ることがありますが、その当時ほど氏の本を読まなくなっているので現在の活動に関してはわかりません)
  一時期本も何冊か読み、その歯に衣を着せぬストレートな物言が好きだった私は、講演会があると聞きつけると福岡市の中心天神に時をおいて合わせて2回出かけました。勿論会場は人でいっぱいでした。ここで印象に残っている話と言えば、政治や経済のことではなく、氏のアメリカ留学前後の時代とお母様のこと、そして氏の結婚観です。彼は、人は一回の結婚では本当の結婚は出来ないという持論です。つまり人生3回結婚説です。これはなかなか面白い話だったのですが(耳を傾けました)、信じられないのですが今はほんの一部しか覚えていず、この話をするとだれからも、「なーんだ、そこが知りたいのに!」といわれ、残念です。人にとって、1回目の結婚というのは、二人が暗闇の中で出会い握手した人と結婚するようなものだ、2回目は、・・・・・ここが肝心なところですが抜けています!! 3回目は、・・・ここは最終回ですから一番の落ち着き先となる最適な結婚となるはずですね。機会があれば聞き直したいくらいです。彼に言わせると、1回目の結婚では、正しい選択はできないという考えだとは分かりました。ともあれ、家庭と育児だけで世間や社会や、はては世界の情勢まで思いを巡らせることの少ない主婦には刺激的な人物だと思いますし、機会があれば、現在の氏の活動や国際情勢の見方などをまたお聞きしたいと思います。目に残るのは、話の途中で暑くなってきたのか、「おーい!○○君」とか言って、背広かジャケットを舞台のそでの方向に放り投げたシーンです。その動作がイメージ通りだったのでよく覚えています。落合氏のような行動派は周囲にはほとんどいなくて、こういうタイプの方が身近にいると女性も影響を受けるのではないでしょうか?


この先も続きます。


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私の出会った芸能人ーその2 [芸能やエンターテイメント]

今回は、元モデルのジャンネット八田さん(旧芸名:八田有加)、歌手の山本リンダさん、女優の津島恵子さんと中村玉緒さんについて話します。ただし、今の若い人は玉緒さん以外は知らない芸能人だと思います。

先ず、ジャネット八田さんですが、1971年、彼女が19歳の時に資生堂のCMモデルとして脚光を浴び始めていた頃、熊本市の上通りにある白十字というかなり大きな薬局の化粧品コーナーで会いました。「ジャネットさん来る!」といった店の看板を見て中に入ると、店員さんが「ジャネットさ~ん!」と声をかけてくれ、振り向いてこちらを見て「ジャネットです、どうぞよろしくお願いします」と言いながら握手してくれました。現在改めて調べてみると、自分とは年齢差がないのに女性として華やかで、かつハーフの人だけにグラマラスなスタイルの人だったので羨望の思いがした覚えがあります。彼女は後に(1981年)あの田淵幸一(旧福岡ダイエーホークス)監督と結婚しました。今どき見かける華奢なタイプのモデルではなく、体格のいい目元に張りのある健康美人という印象が強かったです。このころから、化粧品メーカーが競ってモデルによる大々的なキャンペーンを張り始めたようで、1977年にはあの有名な夏目雅子さんがカネボウの専属モデルとして登場したわけです。ジャ ネット八田さんはその夏目雅子さんの先駆けとなった人たちの一人と言えます。ネットでみると現在の写真でも美しさを保っておられ驚きました。


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  次は、歌手の山本リンダさんです。出会ったのは羽田空港です。初めての海外旅行(ヨーロッパ)で搭乗までの長い待ち時間、何気なく周囲に目をやると、テレビで見覚えのある白いパンタロン姿のリンダさんが事務所みたいなところに入っていきました。その頃はまさにパンタロンが流行だったのです。テレビ画面そのままにリンダさんの長いすらりとした脚が強調されて一際目を引きました。色白で日本人離れした容姿を見て、やはりハーフの人は違うなという印象が残っています。彼女は長く結婚しませんでしたが(恋人はいたのでしょう)、中年になって関東にある大学の教授と結婚したと何年か前に芸能ニュースで聞きましたね。お二人とも創価学会員だということで成程と思った記憶があ ります。


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  女優の津島恵子さんは実家のあるA市の老舗メガネ店でゲストとして接客されているところに母と出かけてお会いしました。津島さんはその名前からわかるように、長崎県対馬(つしま)出身の方と知っていましたが、テレビや映画の役柄のように気品のある美しい女性でした。母はこの時に津島さんとお話しながらメガネを購入しましたが、途中で、「私も近視が強いのですよ。」と言って自分が掛けているメガネをちょっと母に手渡されたのが印象に残りました。津島さんのような昭和の時代を思わせる上品で淑やかな女性、女優さんが少なくなっているのは残念ですね。

  中村玉緒さんと言えば、もともと女優ですが今ではテレビのバラエティ番組でよく見かける方ですね。津島さんと同じく、A市にある呉服店主催の展示会場でお会いしました。玉緒さんは昔から有名な女優でしたので母と二人で出かけたのです。適齢期の娘に丁度着物の一つでもという母心もあったのでしょう。玉緒さんは顧客の着物選びにアドバイスをするゲストといった感じでした。この時は呉服店側の計らいで玉緒さんとのスナップ写真が撮られ、今は少し変色した数枚の写真が手元にあります。さすが一般人のよそ行きの姿ではなく、和服を日頃着こなされた和風美人の雰囲気を漂わせておられました。写真では玉緒さん、女性店主、私たち親子が円座になって選んでいる様子が写っていますが、その時どんな会話を交わしたのか全然覚えていなく、帰りのエレベータの中で玉緒さんと短く言葉を交わした情景――「この 近くにお住まいですか?」とか、「何をされておられるのですか?」と聞かれたこと――を覚えています。その日は丁度掃除か何か作業の途中を抜け出して来たため、母も私も普段着のさえない格好でしたから少々恥ずかしく、母がしきりに「こんな格好できまして・・・」と弁解していたのも思い出されます。その時選んだ着物は自分でも気に入っていた紺に近い水色で今でも取り出して着たいほどですが、なかなか着る機会がありません。玉緒さんと選んだ着物を肩から掛けた私との二人だけのスナップを見ると、こう言ってはなんですが、二人とも本当に若かったなあと思い、いい記念になっています。現在も玉緒さんは大活躍されていますが、今ほどコミカルな飾りのない感じではないにしても、あっさりとした如才のないきっぷの良さは感じた出会いでした。

  今回はこれまでで、次回は映画祭で出会ったあの有名なジャッキー・チェンから話します。


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海外旅行とテロ [日記・雑感]

ー手荷物検査の強化は日本人無差別テロのせい?ー

ずいぶん遡りますが、昭和50年夏(1975年)、初めての海外旅行でヨーロッパに行きました。
その頃の手荷物検査は、今のものと比べると簡単なものでしたが、日本の田舎暮らしの私は「えっ?荷物の中を調べるの?」「そんなことまでしないと信用できない??」という印象を持ったくらいです。しかし一方では、1972年に【テルアビブ空港乱射事件】という日本赤軍(を名乗ることになる)による無差別テロが起こっていた為、日本人であることの引け目から致し方ないと思う気もありました。実際、この事件をきっかけに空港の手荷物検査が厳しくなったという。イスラエルと他のアラブ諸国との終わりのない戦争状態に何故遠い東アジアの日本の若者が割り込んで行けるのか、今でも納得できないし、3人のテロの実行者の内1人生き残った「岡本公三」は、私が当時住んでいた熊本市内の私立高校出身で父親は高校?教師だった。

ー東西ベルリンのあった頃ー

一ヶ月の旅行の間、ほとんどはバスを貸し切って移動したが、ドイツ国内でヒヤリと緊張した事があった。もう場所などは忘れてしまったが、警官か係官かが一行のバスの車内に乗り込んで乗客のチェックをしたのだ。何とも言えないほど張り詰めた雰囲気だった。「変な奴がいたら容赦しないぞ」とでも言ったら良いだろうか。ドイツでは、西ベルリンから東ベルリンに入るオプショナルツアーがあった。私は行かなかったが、後から聞くと、このバス内のチェックどころではないヒリヒリするほどの空気を味わったそうだ。この頃の日本人の旅行はいわゆる農協さんツアーが多く、今でこそ【中国人の爆買い】とか言っているが、日本人のブランド漁りが横行していた。


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ーイラク戦争の勃発ー

年代が21世紀を迎え、2003年3月にイタリアを旅した(この時もツアー)。この時は何とあのイラク戦争勃発の直後と重なってしまった。3月20日、アメリカが主体となりイラク侵攻が始まり、これが悪名高きイラク戦争のきっかけとなった。当初、飛行ルートはアラビアのシナイ半島を横断してイタリアに向かうとわかっていた為、ツアーの中には私も含めとても不安で怖い思いをしていた人がいたが、いよいよ半島に近づいて来ても、台湾人の機長はおろか機内放送による説明もない。ある家族連れの男性が特に憤って、フライトアテンダントを通して機長に航路の説明を求めたせいか、半島を過ぎてから機長のアナウンスが流れた。さすがにイラクやその付近を通過することはしないで半島をぐっと南下したところを飛んだのが真相だった。ふうっ!

ーイラク戦争へのイタリアの反応ー

イタリア国内各地を巡る旅はとても満喫できたが、どこに行っても普通の民家やビルのあちこちの窓から大きな旗(確かイタリア国旗)が下げられていた。イタリア語はほとんどわからないにしても、旗に書かれた【PACE】という言葉は英語の【PEACE】=平和だと想像出来た。とうとう始まったイラク戦争への市民の抗議そのものが現れ、示威的行動力に考えさせられたものでした。


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ートルコの現状( 2003年以降 )ー

その同じ年の夏、初めてトルコを旅した。ツアーガイドは今でもその名前や印象を忘れないトルコ人ニハトさんだった。彼の語った事で印象的な一つは、「他の国はともかく、トルコではテロはありません、大丈夫」ということばだったが、残念な事にその事は翌年に裏切られたのです。イスタンブール市内で大きなテロが起きたのです。
この旅行でトルコの魅力に惹かれ、2度、3度と訪れたが、ニュースで注視しているとトルコは年々テロとは無縁とはもう言えない情勢となっていった。最近起きたアンカラでのテロ事件は私が一人旅をして立ち寄ったアンカラ駅のそば近くで起きたようで、他人事とは言えず恐怖も覚えた。

ーカッパドキアでの出来事ー

有名な観光名所カッパドキアを訪れた時、日本人と海外の人の危機意識に対する違いをまざまざと感じる出来事があった。カッパドキアは広大な岩山が連なる所で、観光ポイントを皆で歩いていると、あるツアー仲間の女性が足場が危うくなり「キャーッ!」と叫んだ。すると間髪を入れずサッと振り返って助けに行こうとしたのは1人の外国人だけだった。私も含めそこにいたツアー仲間の日本人は誰1人対応できなかったし、半ばぼーっとしていた。何事かあればすぐに体が動いて反応するという事は、彼らの日頃の意識の中に、潜在的に危機意識が根付いている為だと思った。国家や国民の環境が厳しい彼らにとっては、集団自衛法案、安保法案のレベルでワイワイ騒ぎまくる日本人は理解できないだろう。

因みに、①トルコには徴兵制があります
②警察を配置できない田舎では、替わりに軍隊がいます


ー英国での手荷物検査ー

もう8年は経つでしょうか?8?10日間英国を訪れ、何とこの時もロンドン市内でテロが起きた後でした。その後当然人数も規模も警備強化されている中を旅したわけですが、確か事件後テロの未遂がまた発覚し容疑者が逮捕された時でした。都市でも田舎でも警察官の人をよく見かけたので、女性の一人旅にはかえって安心な気がしました。

ヒースロー空港の入国審査でのこと。結構質問を連発されたのですが、悪気でなくちょっと軽い気持ちで旅行中の予定や宿の名前を' た、ぶ、ん、 ・・・・に泊まります ' と答えると、審査官がきつめの感じで、問い直してきた。その気配を感じて、真面目に具体的に宿泊先を一つあげると納得してくれ、後はお互い気さくな応答となりました。日本と違い、曖昧なコミュニケーションは、特に入国審査という特殊なシチュエーションでもあり、退けられ却下されるいい例だろう。

あの9・11のテロの後という事で、出入国時のの手荷物検査はさらに強化されていた。液状の薬(例えば目薬でも)、歯磨き、口紅に至るまで検査が厳しく、私の場合うっかりして検査の際所持していた為新品の口紅も含め2本即没収されてしまった苦い思い出があります。


ー台湾での入国審査ー

今年の9月末に久しぶりに台湾に行きました。その出入国審査で気づいたのは、以前なかった両目を見据えたカメラ撮影と両手の人差し指の指紋取りのセットでした。これは当然ながら一人一人コンピュータに登録管理されるのでしょう。


ーフランスのパリでの大量殺戮テロー

11月14日に起きたこの衝撃的なテロによりこれからの人の流れや国家間の行き来への管理がこれまで以上に厳しく強化されるでしょう。日本国内でもいつ起きても不思議ではない程今の国際化は進んでいます。テレビで誰かが言っていました。日本の新幹線は乗客や荷物のチェックがなくとても危険だ、と。国内旅行や海外旅行の楽しみが削がれたり、回数が減っていくのは本当に残念な事です。


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ジーコ元監督が語るサッカー日本代表の悪い癖

11月15日付「週刊SPA!」によると、ジーコ元監督は国際サッカー連盟(FIFA)会長選挙に立候補を表明していたが、先日出馬を断念したという。
このいきさつは後半に述べるとして、記事の中で一番気になったところは、日本代表の試合についての指摘だった。

現在インドにいるジーコ氏は最近の日本代表の試合はあまり見ていないらしく、去年のW杯の試合に非常に失望させられた、つまり、自分が監督をしていた時と同じ間違いを犯していると指摘する。

彼自身の言葉によれば、「日本の選手の悪い癖に、ゴールを奪われると意気消沈してしまうことがある。サッカーでは失点は試合の一部だ。ところが、点を取られると精神的に崩れてしまうんだ。」

このメンタルの弱さは、ただの観戦者にすぎない素人の私にもよく感じられる。1点入れられるとそこから体も気持ちもシュンとなってしまうような雰囲気がテレビ画面からも伝わってくる。これは一体なぜだろう?日本人同士の試合でなく、日本のチームが海外のチームと試合をすると、誤解を恐れず言わせてもらえば、農耕民族対狩猟民族の対決だと感じられる。つまり、日本人はサッカーというスポーツの試合をしているが、海外の選手にとってサッカーは戦争である。そこの意識の違いが試合におけるバイタリティと意気込みの差としてどうしても出てくるのではないか。初期のころと違い、海外でプレーしている選手も多くなり、技術力も相当身につけているのに、本田選手、香川選手でさえまだまだ闘争心が足りないのではと思う。


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今年は何かにつけ戦後70年という言葉が使われているが、その長い間に受けた戦後教育の弊害と日本人の人の良さ(民族性)が、サッカーにおけるガッツの足りなさの直接、間接の原因となっているのではと、個人的には思います。ジーコ氏は【代表である誇り】が一番大事だと言っています。海外の人物から指摘されるくらい、今の日本人は国家意識が持てなくなっていて、その一例がサッカー選手にそのまま表れているだけなのかもしれない。ジーコ氏が語る、【勝ちたいという気持ち、あと少し何かが欠けている】ものとは日本の国を代替わりするという切実な思いだろう。今の代表には、中田英寿、中村俊輔、中澤、そして宮本選手のような戦うスピリットが足りないようだと語っている。


――FIFA会長への立候補と断念について――
取材記者の印象と同じく、ジーコ(敬称略)は現場の人でサッカ-政治とは距離を置いている人だと思っていたので意外だった。彼自身によれば、昔からおかしなことには発言していたしFIFAを変えるチャンスと思ったためだという。サッカーのことを知らない人間がサッカー連盟において権力を長年保持し続けることはおかしいと批判しているところが、すごくまともな人だと思いました。余談ですが、彼は監督に就任した時、日本人選手が安易にコンビニなどの弁当を食事とすることを禁止したと伝え聞く。当たり前のようだが、少なくともスポーツをするものが体造りの元となる食事を安易に考えることにストップをかけた人です。
残念ながら、立候補に関しては、5つの協会の推薦を得るという必要条件を満たせず断念したという。ジーコ氏は今までに監督をした国々の協会に推薦を求めるメールを送り、日本からは何の返事もなかったことに対し、何の誠意も感じられずとても悲しい思いをしたという。自分以上に、日本のサッカーに貢献した候補者がいたのだろうと皮肉っぽく語っている。

2002年から2006年まで監督をしていたジーコ氏に対してこの理不尽な扱いは、本当ならば批判されるべきだと思う。


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式年遷宮を迎えた上賀茂神社と農林秋まつり [日記・雑感]

第42回の式年遷宮(10月15日)を迎えた上賀茂神社で、昨日11月7日、「京の農林秋まつり」があり、神社内を解説付きで見学、普通のガイドブックでは聞けない日本の伝統と文化にふれることができました。解説者は「株式会社 千本銘木商会」の銘木師の中川さん(女性)で、大変貴重なお話が聞けました。上賀茂神社の神主様からお祓いして頂き、この神社の由緒正しき由来や神様のお話も直接伺えて幸運でした。普通は本殿前から参拝するところを本殿の敷地内に入られました。中川氏曰く、「平成25年の60年目の出雲大社遷宮、26年の25年目の伊勢神宮遷宮、そして今年のこの上賀茂神社の21年ぶりの式年遷宮と、3年続きで遷宮が執り行われた時期に遭遇するのは180年ぶりのことです。皆さん、大いなる神のお力を得られますよ! 」と2,3度力を込めてくおっしゃいました。


以下、少し詳しくこのツアーの様子をまとめました。


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つい数日前のこと、新聞の折り込みに上賀茂神社である「秋まつり」の知らせと共に「特別ガイドツアー参加者募集」が載っていて、早速応募しました。当日は神社へ直行するバスに乗り、土曜日の昼時なのに渋滞もなく神社前に到着。第一の鳥居に入ってすぐ右側の本部テントで受け付けを済ませ、予定通り13:00にはツアー参加者が集まったところで、ガイド役の中川さんという銘木師の方が拍手ではなく【おおづつ】という両手で音を鳴らすやり方を教えて下さり、それで二度手打ちをしてツアーが開始されました。【おおづつ】は私たちがよくする拍手と違い、両手を膨らませ空気を込めて拍手することで音がより反響して、山間で作業をしている木こりたちなどがお互いを確認できるそうです。こうして最初から感心しながら興味を持って中川さんの後をついていきました。

初めに説明を受けた建物は外幣殿(重要文化財)です。この後ろに大きな山ザクラがありました。今は秋ですが、春はさぞや見事な花がみられるでしょう。横に大きく枝を延ばした枝垂桜のようです。そこから第二の鳥居の前に着き、一礼をして中に入りました。
第一と第二の鳥居が平行になっていないのはわけがあるからで、第二の方は神山(こうやま)を向き、第一は御所の方角を向いていると言われました。


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中に進むと、先ず手水舎で両手と口を洗い、これまた重要文化財の【土屋】の屋根の下、白っぽい砂利のなかに1列に並んで神主様からお祓いをして頂きました。お祓いの後外に出てみると、何やら結婚式に出る人たちがいます。数は忘れましたが、中川さんが「今日だけでも○組結婚式があります」と言われびっくりしたくらいの数でした。参拝の帰りに一組の国際結婚と思われる、新郎が外国人で新婦が日本女性のカップルを見かけ、付添いの外国人たちも和服姿だったのには驚きました。

次に細殿という建物に移り、その前に造られた一対の立砂の説明を受けました。左右対称の綺麗な円錐形の白砂は、作りたての時は黒く、徐々に乾燥して白くなるそうです。
遠くからは分かりませんが近寄ってみると、円錐の頂上に、向かって左は松の葉が三本、右手は二本差してありました。三は奇数で陽、二は偶数で陰を表し、この一対で陰陽の法則(調和)を示していると説明を受け、昔の人の考えに触れる思いがします。

  細殿の後ろ手はおそらく神山から流れ出る小さな水の流れがあり、それを渡っていよいよ本殿に近づきます。その楼門の斜め右に片山御子神社があり、上賀茂神社本殿を参拝する前にここで御祭神の玉依姫を参拝する意義をお聞きしました。ガイドの中川氏によると、敷地内には40ほどの神社、建物があり、今年の式年遷宮に向け改修した本殿に加え改修の必要がある建物が後に控えているそうです。

  さて玉依姫という女神様に参拝のご挨拶をした後、これまた見事な片岡橋を渡って朱塗りの本殿の楼門に入ります。そのまま奥に進み、中門の中の、おならいをする部屋に通された一行は神主様から直接この神社の由来や歴史について貴重な話が聞けました。この部屋の天井近くの壁に掲げられた5幅の日本画には深く興味を持ちました。直前の日、インターネット上でこの5枚の画と説明を予め知っていたこともあり、ここで本物の画に接すると感慨深いものがありました。別雷大神(わけいかづちのおおかみ)が玉依姫(たまよりひめ)を通して人間界に降りてこられた美しくも象徴的なお話は心洗われます。神主様によるお話はネットにはないものが付け足されていましたので、やはり現地でお話をお伺いする価値があると思いました。お話のあと、普通は参拝者が入れない、中門のある建物よりさらに前に入り、国宝の本殿と横にある権殿を間近に眺めることができ、幸運でした。


  ガイドの方から聞けた貴重なこと

・ 拍手と違うおおづつの効果
・ 第一の鳥居と第二の鳥居の向く方向
・ 重要文化財の土屋の横に掛けられた橋の構造とその役割(日本人の自然観)
・ 一対の立砂が表す意味
・ 片岡神社の祭神と上賀茂神社とのつながり
・ 国宝の本殿と権殿の同時建立(存在)の意味とその希少価値
・ 神山は古来禁足地である
・ 葵祭、という場合に使われる「葵」の本来の意味
・ 前述の橋近くの岩場はパワースポット
・ 俗称「長寿橋」は岩なのか?木か?


  他にも2,3あるかもしれません。

  ツアーが終了した時点で、中川氏の先導で例のおおづつを一度皆さんで打ち散会となりました。

  二つの鳥居内には「農林秋まつり」に参加する各地域のテントがここかしこにあり、地域自慢の農林特産物が並び、楽しい買い物も堪能して帰り着きました。来年もまた是非参加したいし、他の人にも勧めたいと思います。


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私が出会った芸能人・有名人―その1 [芸能やエンターテイメント]

最近、部屋を整理していると、古い変色した写真が数枚出てきた。それは現在もなおテレビ等で活躍しておられる中村玉緒さんと写ったスナップ写真だった。そこには多分40代のころの玉緒さんとまだ若かった私がいた。久しぶりにその写真を眺めていると、今までに私が出会った芸能人や有名人の人達が一人、二人と浮かんできて、こんなに平凡な生活をしてきた私が、決して沢山と言えなくてもたまたま目撃したり、その方の講演やお話を聴いた経験があるのだと感じて意外な思いがした。日常的にそういう人たちと関わりを持っている人からは、なんだそのくらいなのか!と思われるかもしれないが、思いつくまま思い出の引き出しを開けてみた。


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記憶を遡っていくと情景は割とはっきりとしているが、正確な年とは多少ずれているかもしれない。

古くは小学6年生くらいからスタートする。その時、学校から長崎の雲仙に一泊二日くらいのミニ修学旅行に出かけた。有名な雲仙の湯煙の中で時代劇の衣装そのままを身に着けた松山容子さんがいた。ちょうどそのころテレビでは「琴姫七変化」という人気番組が放映されていたためすぐに気付いたのだった。その番組を思わせる着物の衣装を身に着けた松山さんはやはり日本的な和風美人で色白の人という印象が強かった。過去形で表していますが、ネットで調べると、2006年時の青山さんはいまだに上品で綺麗な方でびっくりしました。現在は77才、昔より柔らしい感じがしてむしろ今の方が好感が持てます。もうすでにあの有名なボンカレーの箱の表紙の人で、この人が初めて見た芸能人でした。その頃は田舎の子供でしたし、声をかけたりサインをもらったりとか気の利いたことはせず、じっと見ていた覚えがあります。

二人目の芸能人は、20代前半のころ京都の新幹線ホームで見かけた近藤正臣さんです。列車を待っている間、手持無沙汰に何気にあたりに目をやると気づきました。近藤さんも明らかに列車待ちなのですが、そのポーズや雰囲気が普通の男性とかなり違っていたからです。あれは自然なものなのか、芸能人として常に周囲を意識したものなのかわかりません。あれはドラマの中の一シーンを撮られているといってもいい雰囲気でしたね。暗くはないけれど物憂げな、そこが何となく演技っぽいと思われたのですが、近藤さんもまだ若い青年(30歳前後でしょうか)でしたし、恥ずかしくて近寄れなかったです。残念!

三人目は今の人は知らないでしょうが、元モデルで野球の田淵選手と結婚されたジャネット八田さんです。この続きは連載その2で紹介します。


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「元気の学校」が伝える「アーユルヴェーダ」 [医療と健康]

鳥内浩一氏運営の「リアルサイト」(無料版メルマガ)を通して衣食住情報メディア「元気の学校」の内容紹介が送られてきた。鳥内氏推進のプロジェクト「元気の学校」の中味は毎回質の高い情報ばかりです。
今回は、「日本人は他のアジア諸国と比べても世界一消化力が弱い人種」ということから切り出されていた。

自分の消化力を問いかけてみると、ほとんど自信のない状態で、「体全体が温かく、食べたものが適切に消化されている」とは決して言えません。食べたものがきちんと栄養素にならないと、骨や筋肉やエネルギーに変換されず、過剰な糖やコレステロールとして血中に溜まったり、尿酸として関節に溜まります。これが「毒素」だと説明しています。

体の各部所に溜まった毒素はその部位を冷やし、正常な機能の妨げとなり、更に消化力を弱め悪循環の罠にはまる、と言われると成程と思いました。元から振り返れば、下半身が重症ではないにしろ冷え性の傾向があります。台湾で足つぼマッサージを受けた時、女性マッサージ師が少々ガサガサした私の足のかかとに触れるや否や、「新陳代謝(が悪い)!」といったことが頭に浮かびました。


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「毒を溜めない生活」、つまり、正しいデトックスを追及すると、インド5000年の知識が伝える「アーユルヴェーダ」にたどり着くというのです。この「アーユルヴェーダ」なる名称は、エステやマッサージ関係で何度となく見たり聞いたりしますが、具体的には何を意味するのか知らないままでした。インド古来の何かしら神秘的な術?かなと想像するくらいです。

そもそもこの意味は、「アーユス」=生命 と 「ヴェーダ」=知識・科学 という2つのサンスクリット複合語らしい。インドでは、「アーユルヴェーダ」の医師の資格は国家試験であり、世界三大伝統医学の一つだと言います。(他の2つが何かは即答できませんが)

「アーユルヴェーダ」による消化力「アグニ」を高めると、代謝力も免疫力もアップするというのですから興味が自ずから湧いてきます。消化力が悪化すると次の5つの症状が出てくるそうで、私の場合、×または△は3つもあり、ガックリ!!

・ 目の前のものごとを処理する力が弱まる
・ 人に何か言われると、すぐ落ち込んでなかなか立ち直れない
・ 書類の内容を、目では追っているのに、頭に入ってこない
・ 何を食べても味がしない
・ 無気力で起き上がれない

これらは「鬱」の症状だと言われ、またびっくり!! いつからなのか自分でもはっきりは分からないがかなり経ちます。特に一年前あたりからこの症状が改善されていませんでした。こんな心と体からのサインを「これも年齢のせいか、老化現象か」とひとくくりにして、半ば諦め始める傾向がありました。しかし、老化現象そのものを推し進めるのも、消化力の減退・毒素の溜まりにあると知ることは大事で、心身共に正しい選択ができたら今より豊かな生活に変化することでしょう。


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メールの最後のところで、「アーユルヴェーダ」医療の分野で日本で最も活躍しておられる医師、蓮村誠医師の印象深い体験談が書かれていました。(原文要約)先生が大学病院で病理解剖をされていた時、霊安室で対面された一人の“美しい”老婦人の話です。

その方は肌に張りがあり、つやつやされていた。表情も安らかで凛としたものを感じられたそうです。

人間の女性の脳の重量は、ピーク時の平均で1200gだそうですが、その方の脳重量は1240gもあり、肉眼的にも顕微鏡でも萎縮や傷害はない素晴らしい状態で、脳組織は50才代、いや40才代に匹敵するものだったそうです。その女性は、な、な、なんと!105才の人でした!その方の亡くなり方も朝食の最中にふっと意識を失うようにして永眠された“美しい”死に方だったそうです。

蓮村先生にとって、それは人間の可能性に触れることができた瞬間だったと言われています。人をふけさせているのは年齢による老化ではないと私たちに教えてくれる本当に尊いお話を今回のメールで知ることができました。「アーユルヴェーダ」の詳しい内容と実践方法を知りたいものです。


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李 久惟著「本当は語学が得意な日本人」ーその5 [本のレヴュー]

李氏は最後の5章で、幼少期からマルチリンガルになるまでの体験を語っています。
意外なことに、「母国語すらままならない、人とのコミュニケーションも、言語を学ぶことも苦手な子供」だったということに加えて、台湾は日本と違い多言語社会ということもあり、精神的プレッシャーや苦痛を抱えておられたのは容易に想像できます。しかしながら小学生の頃ヘレン・ケラーの「三重苦」の話を知り大いに希望と勇気を持ち、戦前の偉大な日本人の話にも聞き入る姿勢に既にひたむきな努力家だという李氏の人間性が表れています。
こうした「言葉やコミュニケーション力の不得手」という最大の悩み、最大のコンプレックスと真正面から向き合いなんとか問題解決したいと思ったところは本当にすごいことだと思います。これはいわゆる陽転思考ではないかと思いました。単なるポジティブ思考とは違い、悩みや問題をそのままにしたり無視せずに、自分のこれからの一生の問題、課題として常に意識して来られたので、最大のコンプレックスが今では自分の専門となり「最大の強み」「最大の楽しみ」に変わったと言われるのですから尊敬します。李氏は繰り返し繰り返し、「誰しも自分の決心と努力次第でどんな事にも挑戦できる」とか「困難を克服していく過程に意味があり、その過程自体をもっと楽しむべき」と言い、この考え方、生き方が後にマルチリンガルに導いてくれたと言います。


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マルチリンガルになる運命的な出会い、きっかけは家庭の方針でイギリスのボーディングスクールに行ったり、10代の頃、アイルランドでのホームステイ経験だそうです。ホームステイ先で念願の30もの言語を話すオランダ人に出会い、その時コミュニケーションや語学のコツを惜しみなく教えてもらうという貴重な経験を得られ、その人物に今の李氏が実際にやっている仕事を叶えたいと誓います。ここの所はまるでドラマのようです。

このマルチリンガルの人物も李氏も、「学ぶコツ」よりもずっと大切なことは「そうでありたいと思う強烈な思い」だと言われますが、読んでいる側としては、思いの強さが小さくて何事も成功にまで至らないのかと考えさせられます。挑戦し続ける力、意欲がどうしても途中で萎えてしまうのが事実です。世の中で成功した人は、本当に好きなものや事柄をとことん追求した人、もしくは追求できた人なのでしょう。「努力を続けることの難しさ」や「変わらない自分、変えれない自分」があるのは、「習慣的に出来上がった」いつもの「思考・行動のパターン」に意識的に、あるいは無意識的に戻るというだけのことだと言い、いつでも再トライすれば良いのだと励ましておられます。

李氏には、実はもうひとつのハンデー中度の視覚障害があることも語っておられ、正直びっくりしました。私自身もほとんど似た症状があり、このことが学習意欲をかなり後退させていたからです。障害を持ちつつも特別扱いをせず生涯を通して語学に挑戦いく決意を持たれる生き方に励まされました。才能あるマルチリンガルの人から何らかのコツを得るつもりで手に取った本でしたが、思いがけなく諦めない生き方を学ばせてもらいました。自分にとっても、李氏が問う「なぜ語学力が必要か?」を常に問いかけることは大事だと確認しました。それは「語学が出来ると世のため、人のために出来ることが沢山ある」という事と合わせ鏡のようなものだからです。まさしく李氏の行動の源はこの本全体に繰り返し語られる「人のために何か役に立ちたい」という志です。何気なく添えられた文として、「語学学習の途中でも、人の役に立つことができる」とありました。

この本は、語学学習を啓蒙するだけでなく、親日国台湾の方らしく、と単純に言っては失礼かもしれないが、文化や思想を含め日本や日本人に対する深い造詣、愛情、そして励ましが感じられる本です。


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