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最近の歯科治療―ドックベストセメント [日記・雑感]

奥歯の詰め物が取れたままになっていたため、先日やっと重い腰を上げて歯科医院に予約を入れた。そこは知り合いのお薦めの医院だったが、予想以上に患者さんが満杯状態なため諦めて、ネットで調べた近所のA歯科医院が少し早めに予約できてそこに出かけた。

A歯科医院はマンションの二階にあり、入り口は小さ目だったが中は意外に広くモダンできれいな造りだった。いつものパターンのように問診票を書いた後、診察室に入り、先生が来られる間に渡されたパンフレットを暇つぶしに読んでいくと、「ドックベストセメント」という見慣れぬ治療があることを知った。特徴として次のことが書かれ、興味を持って先生にいくつか質問をした後にこの治療を初めて受けることに決めた。


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特徴は、パンフレットによれば、次のように書かれている。

① 従来の治療と違い、必要以上に虫歯の部分を削らず痛みはほとんどない

⇒ただし、麻酔注射をしてほんの短い間削られた感じはしました
 麻酔は、先生の言われた通り4時間ほど抜けるのにかかり、何日間は治療を受けた歯の部分はズーンとした鈍い痛みは感じました。

② このセメントの成分のもつ殺菌作用で神経を残せる可能性が高くなる
⇒先々の歯のメンテナンスや歯の寿命を考えるとお得かなと思う

③ 殺菌作用で同じく象牙質の再石灰化を促進する
⇒これは治療後の結果を見て自分で確かめるしかないと思う

【注意】
①の麻酔注射の後に先ずしたのは、レーザー照射でした。これは3千円(税抜)かかります。A医院では今のところ「ドックベストセメント」治療は5~10年間ほど無償で行っているが、もうそろそろ有償にするかもしれないと先生から言われ、今の内に治療を受けようという気になりました。



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家に帰りパンフレットをよく読みなおすと、この治療は保険対象外と書かれ、同時に費用はここでは無償で(一般的には20,000円程度必要)行っているという記述があり、どう解釈すればいいのか分からないので数日後にまた質問しようと思います。

ともかく、気に入ったところは、治療のやり方とその効果です。
① 虫歯歯質(軟化象牙質)を完全に除去せずに意図的に残す
② 治療部分を薬液とドックベストセメントの二層で封鎖するという面白さ 
③ その上に詰め物をして一年後、虫歯だったところが再石灰化して硬くなる


【参考】ドックベストセメントの成分とは?

*銅、酸化亜鉛、酸化チタン、リン酸、水酸化アルミなどが主成分
*特に鉄イオンと銅イオンのコンビネーション!の殺菌力が虫歯菌を死滅させる

今回、数年ぶりに歯科医院に行きましたが、虫歯治療に従来と違った方法があることを知り驚くとともに、やはり延ばし延ばしにせず早く行くべきだと反省もした次第です。


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施 光恒著「英語化は愚民化」 [本のレヴュー]

新聞、雑誌でもかなり取り上げられ、近年の小学校における英語教育の早期化の動きは知っていたが、2014年に内閣官房管轄下の会議で「公用語を英語とする英語特区をつくる」という提言がなされたのは、ニュースそのものを知らなかったのか、意識的に記憶に留めなかったのか分からないが、よく考えると日本や日本人の主体性の無さ、考えの浅はかさを露呈していると思い、施氏が日本政府の政策を真正面から批判していることはいちいち納得がいく。これは明らかに英語偏重だといえよう。「今はグローバル化の時代」「せめて英語くらいは出来なくては!」との言葉が巷にあふれている。しかし、単純な?英語学習熱と日本社会の英語化は本質的に異なる。一体政府はどういう国民を望んでいるのだろうか?政治家は具体的な国家理念としてどんな国家と国民を掲げているのか?

このままの政策の方向で進めていけば、日本人は聞こえのいいグローバリスト、つまり、国籍や国家意識のない、自国の伝統や文化を味わい理解し得ない浮遊民の集団になるだろう。施氏は政治学者であるがゆえにかえって政策が生み出す影響力、この国の未来や生活に及ぼす重大な影響―国の形と日本人の存続が脅かされること―を憂えている。「初めにことばありき」とあるように、日本語を英語に譲り渡した日本人になるならば、果たしてこの社会や国土で国民が潜在的な共有性や連帯感を持てるのだろうか? (英語を含めた外国語を学習、研究する意義や値打ちは当然認めているが)


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この本は7章にわたり書かれていて、「英語化」は「愚民化」であり、その行き着き先は日本の国力が地に落ちる「誰も望まない未来」があるだけ、と警鐘を鳴らしつつ今後の日本への提言もきちんと出している。

グローバル化の意味するもの
⇒グローバル化は歴史の必然なのか?
⇒翻訳と土着化のもたらした近代化とその価値
⇒母国語の充実と相対する「英語化」のもたらす弊害
⇒言語の分断が与える具体的弊害(民主主義さえ破壊)
⇒「英語化」の黒幕、即ち新自由主義者たち
⇒「英語化」がもたらす日本語の良さと強み
⇒今後の日本の国づくりへの提言

この本は、言語や教育学者ではなく政治学者によって十分な歴史的事実や資料を基に書かれたとても説得力のある本です。個人的には、夏目漱石をはじめとする明治時代の偉人が考えていた国語観が詳しくまとめられている第3章、「英語化」で壊されるもの5つが書かれた第6章が特に興味深く感じられた。


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李 久惟著「本当は語学が得意な日本人」―その4 [本のレヴュー]

ここで著者は、日本人の語学力におけるアドバンテージは、「音とイメージ」を基とした語彙と表現の豊かさだと言い切っています。大辞典(平凡社)全26巻では収録語彙数が70万語もあることがそれを裏打ちしていると言えます。この例ひとつからも、外国語学習以前に古代の先人たちの編み出してきた日本語に目覚めるべきだと台湾人のマルチリンガルの李氏に教えられた気がします。

自然に耳を傾ける日本人の感性と価値観はさらに日本語を使い続けることで研ぎ澄まされ、あの万葉の歌や和歌を生み出しました。万葉集は、「繊細でち密なもの(ミクロ)から宇宙的な広がりを持つもの(マクロ)」とし、和歌は、「芸術の域まで達する高度な技を有する、文芸の傑作」だと語り、「奥行きの広さ」を抜きに日本語の曖昧さを欠点のように言うことは誤まりであり、むしろ成熟した言語だとする李氏の理解の深さに驚きます。よく台湾のことを「麗しの国」と呼ぶことがありますが、李氏は日本のことを文中で、「麗しの島国」と呼び、日本文化と精神、そして日本語の大切さを訴え、未知の忘れかけられた日本語にも目を向けてほしいといわれ、日本への深い理解と愛を感じざるを得ません。

李氏の日本語に対する造詣の深さは、色合いを表す日本語の表現の多さや「音遊び・言葉遊び」の具体例にも表れています。そんな言葉遊びに馴染んできた日本人だからこそ、語学の習得に便利な「音素」も遊びの感覚で身につけることを勧めています。

ポイントは、 ① 音素には複数の意味がある
       ② 音素は似た「意味・イメージ」のグループに分けられる

以上の2つだという。


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第4章の後半では、世界中の言葉とつながる日本語、日本語と英語のつながり、といった面白い例を挙げていて、一見お互い関係のないような言語同士の共通要素に気付くと、あの「人類共通の祖先の言葉」の存在の可能性を感じるのは容易です。

p146にある「語学習得にとって大事な7つのポイント」とp148からの本気のスイッチが入ってからのやり方と行動はためになります。
個人的には、①頭の中の独り言を外国語に!  ②「自分の語録」をメモする!  ③「マイストーリー」を外国語に!  ④自分の専門と趣味分野を外国語で!  この4つの攻略法が役に立つと思います。この中の一つをまず実行し続けて自信を得られたら、この本を買った意味があります。李氏に感謝です!


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李 久惟著「本当は語学が得意な日本人」―その3 [本のレヴュー]

著者は少年時代、30言語を話すマルチリンガルの先生から「言葉にはダヴィンチ・コードのようなシークレットがある」ことを教わりました。つまり、地球上のすべての言語に隠されたダヴィンチ・コード、つまり音素の存在がある、ということで、ここからマルチリンガルへの道が開けたと述べています。その根拠を宇宙の始まりから説明していくところに普通の語学本と違った面白さを感じました。宇宙の始まりである137億年前のビッグバンの直後、「振動」とともに「原始の音」が宇宙全体に伝わったとして、それは旧約聖書の創世記の「初めに音(ことば)ありき。言葉は神とともにあった。万物は言葉によって成った」という叙述に符合しています。


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この宇宙自体が壮大なワンネス(一つであること)であり、「ヒト」も「ヒトの言葉」もワンネス(単一源流)であること、いうなれば、「人類共通の祖先の言葉」もワンネスである確率は高いと著者は考えます。音声的コミュニケーションを行っていた「ヒト属」から「ホモハビリス」、そして現生人類の祖先である「ホモ・サピエンス」の時代へと進化していくと「意味・イメージ」を持った言語が既にあったという。20万年前のアフリカ中西部にさかのぼる「ヒト」の起源と同様、言語の起源も一つの祖語に収斂すると考えられ、世界の言語をa,k,m,dなどの単音(音素)レベルで比較するとすごく近いものがあるという。一方で、こんなにも多くの異種の言語が存在する理由は、「ヒト」の性質として、他と違うオリジナリティを好む傾向をあげている点は納得がいきます。

さてさて、「音素」とはいったい何でしょう? いよいよ本書のP83から音素の定義と実際の言語での使われ方が具体的に説明されます。ここの部分は言葉や言語に興味がある人なら成るほどそういうことか!と納得するところです。確かにこういう音素の持つ役割をつかむセンスがあれば、マルチリンガルとまではいかずとも語学の学習が楽しくはかどるでしょう。


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李 久惟著「本当は語学が得意な日本人」―その2 [本のレヴュー]

この本の第2章では、マルチリンガルの存在を語っています。世界のマルチリンガルとしては、YouTube動画で有名な、20言語以上を話す17才のティモシー・ドナー氏、日本在住の数学者であり大道芸人でもあるピーター・フランクル氏の名前も含まれています。一方、日本のマルチリンガルとしては、古代から明治時代の人ばかりでなく現代の日本人の中から、あの京都大学名誉教授だった梅棹忠夫氏をまず挙げておられ驚きました。なんと約30言語を理解されていたということです。他にその存在や名前を知らないニューヨークの開業医の新名氏と文化人類学者・言語学者の西江雅之氏を紹介しています。このお二人はそれぞれ、40数言語、50言語をマスターされているというのですから、全く想像を絶します。


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マルチリンガルの頭の中はどうなっているか?イメージしやすいように著者はこう言います。『「言語ごとのメモリーチップ」が「複数の配線」でつながっていて、しかも「異なる言語のあいだ」も「芋づる式」になって、つながっている』

スイスとアメリカの共同研究によると「マルチリンガルやバイリンガルの脳は、母国語しか話さない人の脳と比べて、特に複雑ではない」こと、別の研究では「2つの言語を学ぶのにおいて、頭脳の面積が特に大きい必要はない」ことが分かったそうです。

マルチリンガルの多い国は、多言語の国で生まれ、なおかつそこで生活している人々に顕著なことは頷けることです。ただし、そういった環境が一番強い要因ではなく、西江氏や新名氏のように強烈な志や目標、並々ならぬ努力が一番だと李氏は強調しています。


【語学は才能か?誰でも出来るものなのか?】に対して李氏は、『語学は才能ではなく、トレーニングの賜物であり、誰でも習得できる』と結論付けて、『必要なのは「センス・才能」ではなく、「旺盛な好奇心と努力」であり、上達するには、ある程度「母国語ができている人」なら誰でも可能性がある』と教えてくれます。

『トレーニングとは、「毎日の一歩一歩の練習の積み重ね」です』とありますから、三日坊主にならず、倦まず弛まず続けていくことを求められますから、私のように飽きっぽい人間には、語学学習以前にアドラーの心理学を取り入れなくてはいけないと思った次第です。


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李 久惟著「本当は語学が得意な日本人」―その1 [本のレヴュー]

もう随分前のことですが、平成7年夏に、ユニバーシアード福岡大会があり、この時「語学ボランティア」として数日間フェンシング会場で活動したことがあります。短い期間でしたが幾つかの面白い体験をしました。一つは、台湾の選手ではなく、役員として参加していた方とお話しする機会があったことです。台北市内で会社を経営するその方の名前は覚えていませんが、彼はなんと6,7か国語を操るマルチリンガルの人でした。「その7か国語の中でどれが一番習得するのに難しいですか?」と質問したところ、「(自分の経験からは)ロシア語、次にドイツ語です。」と答えられた。英語一つさえ流暢に話せない自分から見れば、「ふーん、そうなのか!?」とはるか遠くに能力の違いを感じさせられ、かつ羨ましく思えた記憶があります。


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言語と言うと大そうですが、中学以来、英語に興味、関心がある者として、「本当は語学が得意な日本人」というこの本の題名に加え、著者の台湾人李氏が15か国語を操るマルチリンガルの語学講師と知り、非常な興味を覚えました。日本の歴史を古代からたどり、6世紀末の遣隋使、遣唐使といった中国への留学生を初めとして、幕末、明治時代にいたるまでの歴史上の人物たちの語学への真摯な取り組みや豊かな才能を紹介しながら、実は日本人のDNAには語学が得意なものがあるでは、と述べられている。

中でも印象に残るのは、次の事実でした。
① 平安時代の名僧・空海がほんの2年間で当時の中国語や梵語(サンスクリット語)を習得したこと

② 幕末の医師・蘭学者の緒方洪庵はオランダ語を的確に翻訳したばかりか、それまで日本にない新しい造語を作り出したこと。彼は晩年でさえ英蘭辞書を用いオランダ語を通して英語を学んだということ

③ 高知の一漁師であったジョン万次郎は、アメリカにおいて勉学に励み、帰国後は語学力と専門知識を生かし、日本最初の英会話本まで執筆した人物であったこと

④ 特に、幕末や明治時代には、押し寄せる諸外国の脅威や西洋文明の波をひたひたと感じる幕府、諸藩、明治政府の後押しもあり、津田梅子といった女性たちも含めた各分野の先覚者たちの多くが語学の達人、天才とまでいえる存在として活躍して、日本の近代化に大いに貢献した数々の事例

等々、教科書にも出てくる有名な人物のほかにこれまで知らなかった数々の人物がいました。

著者の李氏は台湾出身の方なので、台湾の近代化に直接的な役割を果たした後藤新平、新渡戸稲造、児玉源太郎、八田与一といった、明治時代の偉人と言える人たちの活躍に触れながら、彼らは非常な語学力とコミュニケーション力を備えていたことを興味深い事実やエピソードを通して紹介しています。これらの人達の業績は何度となく知る機会がありましたが、語学力や見識の高さから評価している点がとても新鮮な驚きでした。現在の台湾の土台を作り上げた偉人たちに共通する「利他の心」「公への献身的行為」に対する李氏の賞賛と敬意の思いは、今の日本の国内外で起きている数々の問題は日本人の本来の力によって解決できるはずだという期待にまでつながっています。ここまで信頼されると面はゆい感じもしますが、第1章では、語学に苦手意識のある日本人に自信を持ってもらいたいという李氏の切望が感じられます。


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四年半ぶりの台湾   その4 [日記・雑感]

前夜(28日)8時、開演のはずだったBON JOVIのコンサートが台風のため中止になりがっくりとしたが、今度は今日の夕刻18:15発の飛行機の運航が心配になった。台湾各地での被害の状況がこれでもかと繰り返し流されるテレビの画面の下に、JALを含んだ2,3便の運航取り消しがテロップで流される。手持ちのiPADで桃園空港のフライト情報をみると、ピーチ航空はみな定刻通りとあるが、まだ信用できずにフロントに電話をかける。女性が出たが、初日の受付にいた女性ではなく、なんだか英語も滑らかではなく自信もなさそうだった。それでは困るとフロントに出向き同じ質問を繰り返すと、予定通り便は発着するという。もっとはっきりした返事を求めようとしていると日本人の若い女性二人が近づいてきた。彼女たちも同じことを聞きに来たという。彼女たちがスマホで調べたピーチ航空がわのサイトではすべて飛ばないということで再度混乱してしまった。上の部屋に戻ろうとしていたその時、なんと今日、私がホテルを去った4:30頃に預けたお土産を受け取りに来ると言っていたA氏が現れた。お土産を無事に手渡し事情を話すと、私が書いてよこした電話番号のメモを手にして階下に降りて行かれ、まもなく戻ってこられた。大丈夫、飛行機は予定通り出ます、という言葉にやっと安心できた。A氏と短く話した後、エレベーターの前で別れを告げた。A氏のお父様と今回お会いできなかったことが本当に残念だったが、またの機会があると思う。


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先ほどの二人組の女性は、名古屋の人と堺市の人だそうで、同じ5階の部屋を取っていることがわかり、しばらく楽しい旅の話を交わした。堺の人は私と同じ便を予約していた。

もうすでに帰りの荷物の整理も済ませていたし、駅前近くのバスセンターからは四時前に乗ると十分に間に合ったので、初日に出かけた西門町に買い物がてら出かけた。この地域はホテルから近く、飲食店、お土産屋、雑貨屋、様々な店があった。確か小さ目の映画館もあったと思う。初日は完全に夜だったのがこの日は午前から出歩き、前に見かけていた特徴のある店やビルを見つける中、お土産用になる雑貨、定番のパイナップルケーキなどの菓子類、昼食用の焼き飯や大根餅を買うことができた。台北駅近くにホテルを取る人には大変行きやすく、庶民的で若者たちが多い印象を持った。


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買い物に満足して帰る途中、これまた初日の夜に立ち寄った足つぼマッサージ店に行き、今度は全身マッサージを受けた。今回他に見かけた店と比べるとここの店がいくらか安かったからと足つぼマッサージの時の男性が上手だったからだ。受付でその人を指名すると、運よくこの時間帯に店におられた。帰りしなに尋ねると名前は楊さんだと受付の女性が代わって言われた。料金は999元で、一時間半で4千円だから日本と比べると安い。

マッサージ開始は13:10を過ぎていたから、ホテルに着いたのは3:00前だった。重い荷物を二つ持ち、頑張ってバスセンターから高速バスに乗り込んだのは4時まえだった。空港に着き、ピーチ航空のカウンターに近づくと、ホテルで出会ったあの若いKさんが先に来ていた。トランクを一個預け、セキュリティーチェックを受け、出国審査を通りラウンジに入るころには疲れが出ていたが、ここまでは予定通りだった。

さあ、ここからが大変だった。18:15発が一時間遅れの19:15になり、そのうちB5ゲートからB2ゲートに移動させられ、いらいらと疲れがつのる中、なんと23時あたりまで待ち、機内に入って出発かと思えば、そこから50分椅子に座ったまま離陸を待ち続けた。離陸は夜中0時前10分だった。関空に着いたのは、夜中の1:55分あたり。とっくに最終便のリムジンもなし、JRもなし、タクシーすらやってこない。やっと来たタクシーを捕まえると京都までは3万4,5千円かかると言われる。関空内で毛布を借りれるところがあり、2時間ほど仮眠したあと、7:00発のリムジンバスにのった。

今回のミニ旅行は風速81メートルの台風に散々振り回されたものになったが、これも自然の力だと受け入れるしかない。これに懲りずまた新たにチャンスを得て、好奇心の趣くまま旅をしたいと思った。


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台湾の若者たち―時代の変化と少子化社会 [日記・雑感]

9月末に四年半ぶりに台湾を訪れた。その時に聞いた話だと、台湾の若い人の収入は今2~3万元程(日本円で8~12万円)しかなく、それでも家では食事を作らず食べず、気軽に外食してしまう傾向があるという。「それでは収入が持たないのでは?」と問いかけると、これにはわけがあるのです、と返事が返ってきた。今の台湾の若者たちは、家庭を持たず、つまり結婚はしないで独身のままで親や祖父母と同居している人が多くなっているそうだ。少ない収入でも同居によって家賃の心配もなく経費も節約できるため、自分の収入は外食代やその他に自由に使えることになる。その一方で、親や祖父母の世代は、子や孫にあたる若者たちの生活ぶりや将来に気をもみながら養っている。台湾も日本と同じく、親の家でパラサイト同居をする人が増えているということだ。

いったん、社会がある程度の経済的レベルを達成すると、例外はあるだろうが総体的に見て若者たちは忍耐、努力や自己献身を要する結婚生活や自分たちの子供への教育に汗を流し、身を費やしていこうという考えにはなかなかなれない風潮が生まれてくる。同時進行しているのが少子化である。台北市の中学校で教師をしている方の話では、4千人生徒がいた学校が4年ほどで半分の2千人に激減したそうだ。これには言葉を失った。日本では、2025年には65歳以上の人口比が4分の1になる高齢者社会になっているという。知人の86歳の台湾人女性は13人兄弟の長女だという。明治、大正時代の正確な統計は知らないが、日本でも戦前は子供の数がとても多かった。


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目の前にあるあふれるばかりの物、物、物の氾濫、お金さえあれば安直に選べる外食の品々、
巷にあふれるスマホへの依存は流行の共有を促す。

今回、地下鉄には一部の区間しか乗らなかったが、スマホの画面に食い入る若者たちの姿は、日本での街中や電車内の風景となんら変わらない。ありとあらゆる情報を瞬時に同時に得られる情報社会、同じトレンドを好んで指向していく若者社会。いい意味でも悪い意味でも物質的豊かさを即席に味わえる経済システム。これらには、日本、台湾といった国籍を問わず、民族や時には宗教も超えた、今のグローバリズム社会の様相が表れている。

お金や経済は個人にも国家にも必須のものだが、それに逆に支配される人間の危うさを今回の旅行中にみたシーンで感じることができた。少子化社会になっている台湾は日本と同じく、これからの人民、国民の本当の豊かな生活とは何かを投げかけている。


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四年半ぶりの台湾   その3 [日記・雑感]

フロントにモーニングコールを6:45に頼んでいたが、今日はいよいよBON JOVIのコンサート当日で、しかも台風接近という事態もあり、4時過ぎに目が覚めてしまった。早朝の5:00過ぎ、台湾まで連絡用に持参したLINEの着信音がして開くと、今日ランチの約束をしていたA氏からだった。メールでは、予想できていたことだったが、「残念ですが、中止せざるを得ません」とあった。予定ではA氏がお父様を伴ってホテルまで迎えに来て下さることになっていたのに、本当に残念だった。お会いできていれば、どんなに話がはずんだことだろう。テレビをつけると、台湾各地の被害情報が続々と流されている。もうこのときは7,8割がたはコンサート中止という文字が頭をよぎる。A氏が合わせて送って下さった台風の写真は台湾の中心をすっぽりと包む台風の図があった。八時過ぎに昨日と同じく、地階にあるレストランに行き、朝食をかなり多めにとった。目の前の大きなテレビでもこれでもかというばかりの台風情報や被害状況ばかりだった。

9時過ぎに、もう一度A氏がネットにつながる台風情報を2件送信して下さった。


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10:38  A氏が自分のFACEBOOKをチェックするように、との伝言が入っていた。しかし、この伝言を見る前に、せっかく台湾に来ていくら台風のおかげとはいえホテルに缶詰め状態になるのはバカバカしいと思い、昨日フロントで傘を貸してもらえたことを思い出し、外へ出た。雨と強風の中でも、翌日乗る予定の空港行きバスセンターの場所を確認したかった。このセンターは、来た時に降り立った場所近くだったが、歩いて5分かそこらしか感じられないくらいのところにあり、もうそこからは台北市のメインの駅、台北駅、そのほぼ前には20年前にも中に入った三越デパートがあった。ネットで探すのに散々苦労したホテルだったが、これ程交通や買い物へのアクセスがいいところだったとは!フロントの若い男性に尋ねると、平日限定だが、リピーターには少々の割引があるらしい。ホテルライフを楽しむとかいうのでなく、ただアクセスのいい宿泊限定という人にはありがたいホテルだろう。

バスセンターを過ぎ、三越に入ろうとしたら正面ドアは閉められていた。さては、また台風のせいか!と思い、横道から裏手の通りに出て、店の並びを一つ一つ眺めて散策した。中に入った最初の店で、カエルの頭が取っ手になっている折り畳み傘を100元で購入した。これまでに何本いい傘を置き忘れたりなくしたことか、このくらいの値段だと許せる気がした。(後から見ると、日本の三重県の会社が中国で生産し、台湾で売っているというおまけがついていた)三越の真裏に出て、守衛さんらしき人に今日は閉店ですか?と英語とジェスチャーで尋ねると、人差し指を二本揃えて11時からだと知らせてくれ納得した。日本と違い、店のスタートが遅いのだと分かる。一方、その分夜店などは延々と遅くまで出されているのだ。1ブロック過ぎて南側を見ると、なにやら大きな建造物が目に入った。何となく博物館のような感じがして近づいていくとその通りだった。この天気のせいか人の流れはなく、そのまま中に入る。敷地内には昔の機関車が小さな建物内に展示されたり、博物館の向かって右側には、有名な元李登輝総統の直筆の彫られた石碑や樹齢4百年の菩提樹があった。建物の横を通っていくと、なんだか日本の太鼓橋に似た造りの石橋があり、雨に煙るその姿をカメラに取ったりした。博物館そのものに入ろうとすると、中から守衛さんが出てきて今日は閉まっていると身振りで示された。素直に諦めて、また台北駅方面に戻る形で歩いていると、足つぼマッサージの店を通りかかった。値段が安く350元とあり、安さにつられ、店からも日本語を話せるような女性が案内に出てきて、マッサージをうけた。初日に受けたマッサージと違って今度は3,40代の女性だったが、力がなんとなく弱い感じがするのと、さほど丁寧ではなかった。やはり、観光客が多い場所だと努力なしに自動的に稼げるから少々擦れてくるのかなと思った。こういった店は自分の基準に沿ったものと人を選ぶべきです。


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 眼鏡をかけた受付の人は日本語を話せたので、近くにスーパーマーケットがないか尋ねると、スーパーマーケットの意味が分からないようで、最後に、「ああーっ、雑貨店ですね、台風で開いているかわからないけれど近くにあります。」と店の裏口から道順を教えてくれた。雑貨店はラッキーなことに開いていた。なぜなら、買いたかったものがほぼ買えたから。満足して店を後にし、すでに開店している三越の地階を目指した。ここでもお目当ての珍しい蜂蜜を見つけ、大小のガラス瓶入りを購入、もうお昼だっだのでサンドイッチを買った。雨は激しくはないが、風も強いためホテルに大きな荷物を提げてもどった。

部屋でipadを開くと、A氏からFacebookを開くように指示があり、そこにはBON JOVIコンサートの中止が載っていた。これで私の目的が失われた!!高いチケット代(5800元=2万2千円位)は払い戻しがあると発表されているが、私は明日台湾を去らねばならず、また一つ問題がおきた。ここから、そもそもこのチケット購入に手を貸してくださった若い知り合いの女性にLINEで連絡を取り、何度もメールや電話のやり取りを繰り返した。彼女の機転で、フロントの女性に頼んで郵便切手代25元を払い、チケット販売者宛にチケット入りの封筒を郵送してもらうこととなった。捨てる神あれば、拾う神ある、である。

一段落して、まだ夕方だったのでホテル近くの通りに出て、二件のコンビニ、ファミリーマートとセブンイレブンをはしごして夕食になるものを買ってきた。日本にはない台湾独特の紫いもの饅頭や皮蛋らしきもの、中にいろいろなものが入った紫色のおにぎり、そして色々なフルーツが入った大きめのカップも添えた。部屋で食べるとどれもおいしくてちょっと物足りないくらいの量だった。

明日はいよいよ台湾を去る日、仕事がなければ、台風が来なかったら、、、と思いは残るが、一人旅でも台湾での旅の感覚がわかり、今後のチャンスを狙いたいと思った。

こんなわけで、台湾での3日目は終えました。


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四年半ぶりの台湾   その2 [日記・雑感]

9月27日

前夜、桃園空港から國光客運というバス会社のリムジンバスに乗り継ぎ、台北駅近くの終点で降り立ったときも既に雨は降っていたが、そう激しいものではなく、28日のTWTC(南港展覧館)であるBONJOVIのコンサートを控えて困ったな、とこのときは思うくらいだった。昨日は疲れすぎていたのか、場所も変わり、国さえ変わって、ぐっすりとは眠れなかった。朝から出遅れるのは避けて、6:45のモーニングコール前に起き、急いで髪を洗い、シャワーを浴びる。クウィーンエコノミールームというこの部屋の規格のためバスタブはない。どこかの国と違ってお湯が途中で出なくなるということもなく、トイレとの仕切りガラス戸が横開きになっていて、結構便利なものだと感心した。部屋のテレビをつけると台風接近のニュースが何度も繰り返し流されていて、いやな予感がする。

7:30からオープンの地階のレストランにいくと大型のテレビがあり、ずっと天気予報専門のチャンネルなのか、台風の情報ばかりだった。ネットで事前に知っていたが、朝粥とそれに合わせたトッピングが4、5種類あり、ピータンを半分にしたもの、丸ハムのスライス、入り卵風に何かと混ぜたようなもの、漬物として3種類ほど、何よりうれしいのはチンゲン菜を煮たものがあった。他にもいくつかあったのは映像として覚えている。パン食の人には薄切りの食パンもあり、コーヒーはボタンを押すと出てくる機械があった。朝のボリュームとしては十分ではないだろうか!?

この日は知り合いの台湾の年配の女性の方R女史から電話が入り、喜んで話し始めると、その方は約束の日を一日遅れの明日と思っていて、其れでもなんとなく気になり私に電話してきた様子だった。こちらはこの時期が台湾では日本のお彼岸にあたる中秋節だということは念頭になかった。彼女は思い違いにびっくりされて、この時期に合わせ親戚の方々13人と会食の予定だと言われ、私もここまで台湾に来た目的の一つをあきらめないといけないかなと思ったが、「ちょっと待って下さい」と何度か妹さんに連絡され、結局、最初の変更に次ぐ変更で、この日の11:30頃にホテルに迎えに来ます、との返事を受けた。


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いつもてきぱきとはっきりされた方だけに、約束の時間に姿を見せられた。フロントからの電話で5階の部屋からエレベーターで降りると、狭いフロント前にその方がおられた。もう86才になったのですよ、と達者な日本語で話されるが、自分が生きて86才になっていたら、果たしてこの女性のようにしっかりと心身ともに自立した生活をしているだろうかと内心感じさせられた。

そのあとすぐにホテルを出て、雨の中傘をさしつつ台北駅近くのとあるビルの中にあるレストランに向かった。なんでもそこは来られたことがあるところで、あまりお腹はすいていないものの、シンガポール風ビーフンとエビ入り焼売を注文して、後からはレモンとゆず入りホットジュースを追加した。確かビーフンは600~700円くらい、焼売はもっと安かったと思う。シンガポール風というだけあって辛みがある調味料が入っておいしかった。ついつい残すのはもったいないと思い平らげてしまった。その方のお皿を見ると、ちょっと残しておられた。ここでは食事をおごっていただき、その方の自宅に誘われ、台北駅から電車に乗り、中正記念堂という駅で一度乗り換え、終点駅の新店についた。   住まいは山の上にある住宅群(マンションの集合住宅)なので雨の中、駅前で目の前のタクシーを拾ったところ、顔なじみの運転手の人だった。ここでは北京語で話されていただろうか?

最初から親しげに話を交わされ、車は段々と山道の中に入り走っていく。途中、前回の雨のせいか山の斜面が崩れいつもの道が一部通行止めになっている所をさけて車は徐々にヘアピンカーブ上の道路を進んでいく。「ウーライって知っていますか?」と聞かれる。「ええ、あの温泉で有名なウーライ(烏来)ですよね?」すると、「このいま走っている道も日本(統治)時代に造られたものですよ。」と教えられた。戦後70年を経てもそのまま使われているのだなと感心する。台湾にはこういう日本時代のインフラが生かされているものがよくある。日清戦争後、日本の統治が始まるが、明治当初から日本は台湾に莫大な予算を費やし、国会で、こんなに予算をかける必要があるのか、もう台湾からは撤退すべきだという反対意見があったと聞いている。アングロサクソン人によるアジア、アフリカでの植民地支配とは異なる日本の統治はもっと広く日本に、世界に広める必要があると思う。


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15分くらいだろうか、耳の鼓膜がつーんとするほど徐々に高度を増して一つの山の頂上付近に着いた。そこはかなり年数も経たマンション風の集合住宅が立ち並んでいた。

エレベーターを使いR女史の自宅に案内された。ドアの前で靴を脱ぎ、室内でスリッパに履き替えた。中はすべて白に統一された壁と石(大理石?)の床だった。リヴィングが広めで、他にキッチン部分、洗面と浴室が合体した小部屋、三つの小部屋から成るマンションだった。お昼寝をしますか?ときかれ、連日睡眠不足のためここは遠慮をせずに、寝室の小さ目のベッドで休ませてもらった。3:30から5:00あたりまでうとうととしてしまいながらも眠りつくことはなかった。

    リヴィングに行くと、R女史はなんとソファでゲームをされていた。お待たせしたなと気の毒に思いつつ、お話をし始めた。「私はテレビはほとんど見ないのですよ、面白いものはないから。家にいるときは24時間放送の日本の歌番組を聞いています。」日常の生活の様子から今の台湾事情、特に今時の台湾の若者の生活感、暮らしぶり、そして一番印象的なR女史のこれまでに至る過去の出来事、人生を話して頂いた。今回は連絡を取っていない同じ台北市在住の実業家O氏の人生とはまた別の驚きに満ちた人生だった。戦中、戦後という時代が背景にして、国や民族や時代に翻弄されるままではない、まさに自力の持ち前の感性や才能で切り開いてきた人の話である。お話を大分聞き終わったころ、「Rさんのこれまでの人生は一冊の本になりますね!!」と感嘆と驚きの声を発したほどである。

    ひとしきり話した頃、とうに台北駅に戻る時間になっていた。山のふもとに30分おきに出るバスがあるのだが、いろいろ考えられた末に、結局知り合いのタクシーを電話で呼ばれた。丁度食事中の運転手の方からほどなくして折り返しの電話があり、マンションを後にした。運転手の方の名前はプレートを見ると、洪と記してあった。R女史に聞くと、この人とは台湾語で話しているらしい。

    新店駅からは来た時と逆のルートになるだけだ。電車は行きより少し混んでいた。日本でいうシルバーシートに並んで座った。彼女曰く、「台湾人の若者だと席を譲ってくれるが、よそから来た外国人は知らんふりです。」外国人とは近隣のアジア諸国の人々、まあ中国大陸の人を指していると思われる。電車賃は30元、つまり120円なので、台湾の交通費は電車に限らず日本に比べ安い。水色のおもちゃのように軽いコインが切符売り場で出てくるので、これを改札機のところであてると通過できる仕組みだ。

    台北駅に着くと夕食をとるため上階に上って行った。そこは日本でいうとフードコートと言えるレストラン街だった。あまりお腹のすいていない私は台南風のソーメン汁を注文した。ここでもR女史におごってもらい、帰路に就くため一階に移動。このころにさすがにR女史に疲れが出てこられ、一階のタクシー乗り場が先に見えたところでお別れした。後から後悔したが、新店駅でお別れしておくべきだったと思った。心中申し訳なく思いつつ、お互いまたの再会を願い笑顔で別れました。

    ここでの時刻はもう夜8時半ころだったかもしれない。拾ったタクシーは運転手も40代くらい、ナビも付き、車も初日のタクシーと比べ綺麗で不安感がなく料金も75元(300円)と安かった。

    ホテルの部屋に戻ると、R女史に会えた満足感とお話を聞いた興奮を覚えていた。この日の服装は、七分丈の黒Tシャツ、その上に白長丈の下がレース付きの袖なし、これに縞の伸縮性のある長い上着だった。

  帰りのタクシーの中でもコンサートへの影響が気になり天気のことを聞いたが、あまり先方は気にしていなく流された感じだった。この夜は前日より早めに横になったが、旅の興奮か、今日の話に酔ったのかまたまた寝付かれなかった。かくして2日目は過ぎたのでした。


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